信州・霧ヶ峰の風とかおりは、 霧ヶ峰のすべてをご紹介する、「霧ヶ峰高原」の総合ガイドです


霧ヶ峰高原−−− 歴史など


ニッコウキスゲ満開−−−−−−−−− レンゲツツジ咲く山頂−−−−−−−−− マツムシソウの尾根道−−−−−−−−山彦谷越しに八ヶ岳を望む 

霧ヶ峰の今・昔

 霧ヶ峰高原・八島湿原ができた10000年も昔、先土器時代の遺跡があって黒耀石の石器が出土しています。また、縄文時代の鏃も見つかっています。中世になると、五穀豊饒を祈願した祭りの場、鎌倉武士が流鏑馬や笠懸などの武術を競った所でもありました。江戸時代になると、高原全体が周辺農村の採草地として利用され、草原の植生が維持されてきました。
 明治時代の霧ヶ峰高原は、霧ヶ峰のぼりつくせば眼の前に草野ひらけて花さきつづく(島木赤彦)にあるように、景勝地・自然研究の場として知られてきます。昭和になると、高層湿原の価値が認められて国の天然記念物に指定されます。池のくるみにスキー場ができ、霧ヶ峰グライダー研究会の設立、ヒュッテ強清水ができて文化人たち(深田久弥、武田久吉、柳田国男他)が集まるなど、霧ヶ峰は全国的に知られてきました。
 太平洋戦争後になると、採草地利用が減少する一方、1951年に強清水までのバス開通、1954年に霧ヶ峰スキー場に木柱リフト導入、1959年に霧鐘塔建設など、利用者が増えてきます。1960年代になると長野県の観光開発の一環として、ビーナスライン建設の動きが起こり、霧ヶ峰有料道路・霧ヶ峰線(1966着工・1968開通)、同・八島線(1968着工・1970開通)が開通し、さらに美ヶ原へルートを延ばして観光利用が拡大していきました。八島線の建設にあたっては、八島湿原の自然や旧御射山遺跡の保全を求める先駆的な自然保護運動が起き、ルートが変更されたことで知られています。

黒耀石のふるさと

 霧ヶ峰高原の北側山麓、和田峠や鷹山は黒耀石の産地として知られています。
 長和町の鷹山遺跡群では1991〜93年に縄文時代の大規模な黒耀石採掘跡群が、95年には大規模な石器加工場所遺跡が明治大学考古学研究室によって発見されました。この一帯は約1万年前から6500年前までの間、石器工房があり、縄文期に組織的な生産活動が、専門家集団によって行われていたと見られています。 
 ここには、星くずの里たかやま 黒耀石体験ミュージアムと明治大学黒耀石研究センターが設置されていて、黒耀石鉱山採鉱跡(実物移設展示)、黒耀石ギャラリー、縄文グッズ作成体験コーナーなどがあります。

旧御射山遺跡(もとみさやま)

 八島湿原の南端、御射山に小さな社があります。鎌倉時代、ここに軍神、諏訪大明神を祭って御射山の祭りが開かれ、諏訪、甲斐を中心に武士や幕府の重臣たちが集まりました。祭壇を中心にして、広く三方を囲むなだらかな丘の中腹を数段に削って桟敷を設け、小笠懸、相撲、草鹿、武射競馬などの奉納試合を行ったといわれています。
 祭りは夏の5日ほどで、その期間は見物客も集まり、田楽、猿楽などの興行もあったといいます。 この桟敷の跡が、今も丘の中腹にスタンドのような形で残っています。
 御射山から流れに沿って観音沢を下れば、諏訪大社御柱祭の下社御柱置き場のある大平集落です。

諏訪大社・御柱祭

 八島湿原の南端、御射山の小さな社・諏訪神社から旧御射山遺跡を左に見て、観音沢を下る沢沿いの道は新緑や紅葉のきれいなハイキングコースです。深い樹林、巨岩や澄み切った渓流を見ながら大平集落までは6kmほど、ここは諏訪大社御柱祭の棚木場(たなこば:下社の御柱置き場)で、7年目毎の4月中旬、山出し祭の木遣りに合わせて、巨木は氏子達の曳く綱によってゆっくり動いていきます。
 山あいの細い道を進んだ御柱は、下社御柱祭の最大の見せ場「木落し坂」に導かれ、数万の大観衆が固唾を飲んで見守る中、斜度35゜100mの急坂を、命知らずの若衆を乗せて土煙を巻き上げながら一気にすべり下ります。
 木落しを終えた御柱は、注連掛に曳きつけられて,5月の里曳き祭までの間静かに安置されます。 下社の里曳き祭は新緑の美しい5月中旬、華やかな御柱行列のあと、建御柱で下社春宮、秋宮に建てられます。

中山道

 霧ヶ峰高原の北側山麓には、中山道、和田宿から和田峠を越えて下諏訪宿への道があります。
 和田宿は中山道一の長丁場和田峠越えを控えて宿泊者も多い所でした。和田宿本陣は和宮降嫁の1861年3月宿内の火事によって焼失し、11月の和宮宿泊のために幕府からの拝借金によって再建されたものです。復元された旧中山道歴史の道を進むと、三十三体観音、峠の中腹の接待に国史跡「永代人馬施行所」があります。ここでは常時牛馬に桶一杯の煮麦が、冬期には旅人に粥と焚き火が施されていました。
 石畳や、一里塚を経て東餅屋、スキー場跡の脇道を登り切ってビーナスラインを越えると和田峠、古峠の碑があって、諏訪方面の展望が明るく開けています。
 あとは下諏訪宿までひたすらの下り、途中に幕末高島藩・松本藩連合軍と交戦した水戸天狗党の浪士の墓があり、諏訪大社御柱祭の木落とし坂をすぎると間もなく諏訪大社下社です。

グライダー

霧ヶ峰は日本グライダー発祥の地といわれ、土日休日を始め、グライダーが飛行しています。滑走路付近には、グライダーふれあい館があって機体の展示等を行っています。

1932年 藤原咲平(東大教授・後中央気象台長)の提唱で、霧ヶ峰グライダー研究会発足。これが日本グライダーの発祥でした。
1933年 格納庫建設、8月に3機が整備され初飛行が行われました。
1936年 第1回全日本グライダー大会霧ヶ峰にて開催。参加機22機、観客2万人。
1945年 終戦、数十機の機体とともに格納庫などグライダーに関する全てが破棄されました。
1947年 朝日新聞社等により復興に着手。再発足の日本学生航空連盟等練習再開。格納庫も諏訪市民の尽力で再建。
1955年 霧ヶ峰グライダー研究会再発足。
1968年 諏訪市グライダー協会設立。日本学生航空連盟等からの寄贈や新規購入、さらに西独製上級単座競技機も購入して活発な活動が現在も続いています。
1997年 格納の他、展示スペースや、シアターなどを備えたグライダーふれあい館(入館無料)が建設されました。

  「草に寝て 青空みれば 天と地と 我との他に 何ものも無し」   藤原咲平

ドライブ

八ヶ岳中信高原国定公園をぬって霧ヶ峰高原を走るビーナスラインは、信州を代表するドライブウェイです。
始点の茅野市街(標高800m)から、八ヶ岳連峰を眺めながら進み、高級別荘地の蓼科高原を貫いて白樺湖に至ります。
 大門峠から、車山の南斜面を走り、ニッコウキスゲ咲く中を霧ヶ峰IC(標高1600m)で右折して八島ヶ原湿原から和田峠(標高1530m)が霧ヶ峰高原の区間で、八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、更に北アルプスの眺望が見事です。夏、ニッコウキスゲの盛りの時期には、渋滞緩和のためマイカー規制が行われシャトルバスが運行されています。
 更に進めば、アルプスの展望台・美ヶ原高原(標高2000m)に至る、全長76km、素晴らしい眺望の高原ドライブウェイです。
中央道諏訪ICから茅野、R152大門街道で白樺湖を経て大門峠への道、または諏訪市元町から霧ヶ峰ICへの道、長野道なら、岡谷ICからの下諏訪・和田峠ルート、上信越道からは、佐久ICからR142で和田峠への道が霧ヶ峰高原に通じています。
蓼科高原から八ヶ岳・麦草峠越え等も組み合わせれば、八ヶ岳中信高原国定公園を巡るすばらしいドライブが楽しめます。
 



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